概要
呂布(りょふ、生年不詳 - 199年2月7日)は、中国後漢末期の武将であり群雄の一人です。字は奉先(ほうせん)。并州五原郡九原県(現在の内モンゴル自治区包頭市)の出身です。その並外れた武勇で知られ、「人中の呂布、馬中の赤兎」と称されました。特に小説『三国志演義』においては三国志最強の人物として描かれています。
呂布は最初に丁原に仕えましたが彼を殺害し、次に董卓に仕えて養子となりますが、同様に殺害しました。その後は各地を放浪し、一時は独立勢力を築きましたが、最期は曹操と劉備の連合軍に敗れ、処刑されました。その生涯は、類まれな武勇と度重なる裏切りという二面性によって特徴づけられています。
詳細レポート
出自と初期の経歴
呂布は并州五原郡九原県の出身で、正確な生年は不明です。若い頃から勇猛さと武芸の腕前で知られ、并州刺史の丁原に仕えました。丁原は呂布を主簿(会計係)に任命し、非常に寵愛したとされています。呂布はその腕力、弓術、馬術に秀でており、「飛将」と呼ばれていました。
董卓との関係と裏切り
189年、霊帝が崩御し、都で政争が起こると丁原も上洛します。しかし、実権を握ろうとした董卓は、丁原の軍勢を奪うため呂布を誘い、丁原を殺害させました。董卓は呂布を非常に重用し、父子の契りを結び、騎都尉、中郎将に累進させ、都亭侯に封じました。董卓の傍若無人な振る舞いに対する恨みが高まる中、呂布は董卓の身辺警護を務めました。
しかし、董卓との関係も長くは続きませんでした。史書によると、呂布は些細なことで腹を立てた董卓に手戟を投げつけられたことや、董卓の侍女と密通していたことが露見することを恐れていたとされています。司徒の王允らが董卓暗殺を計画すると、呂布もこれに加担し、192年に董卓を殺害しました。
流浪の日々と群雄としての台頭
董卓暗殺後、呂布は王允と共に一時朝政を掌握し、奮武将軍に任じられ温侯となりますが、董卓の旧臣である李傕・郭汜らに長安を追われました。その後、呂布は袁術を頼りますが受け入れられず、次に袁紹の元に身を寄せ、黒山賊の張燕討伐などで武功を立てました。しかし、ここでも袁紹との関係が悪化し、張楊などを頼った後、曹操の部下であった陳宮や張邈らに迎えられ、兗州を巡って曹操と激しく争いました。
兗州争奪戦に敗れた呂布は、徐州の劉備を頼ります。当初、劉備は呂布を暖かく迎え入れましたが、呂布は劉備が袁術と争っている隙に下邳を奪い、徐州を乗っ取りました。これにより、呂布は一時的に一大勢力を築くことになります。
武勇と象徴
呂布の武勇は三国志の時代において際立っており、「人中の呂布、馬中の赤兎」という言葉で、彼の強さと愛馬である赤兎馬の素晴らしさが称えられています。赤兎馬は一日に千里を走ると言われた名馬です。呂布が愛用した武器としては、方天画戟が有名です。
史書には、呂布が袁紹の元で張燕を攻めた際、わずか数十騎で日に何度も突撃し、張燕軍を打ち破ったことや、郭汜との一騎討ちで勝利したことなどが記録されています。また、楼門の上の武器の刃先を射当てる神技を見せたという逸話もあります。
呂布、赤兎馬、方天画戟のイメージ (AI生成画像)
性格と評価
呂布はその圧倒的な武勇とは裏腹に、性格や行動には多くの問題を抱えていたと評価されています。
度重なる裏切り: 丁原、董卓、そして劉備と、恩義ある主君を何度も裏切ったことは、彼の評価を大きく下げる要因となっています。このため、「三姓家奴」(三つの姓を持つ裏切り者)と罵られることもあります。
知略・政治力の欠如: 個人の武勇は卓越していましたが、大局的な戦略眼や政治力、人心掌握術には乏しかったとされています。部下の陳宮のような優れた参謀の意見を聞き入れないことも多く、それが敗因につながったとも言われています。
人間関係: 参謀の陳宮とは最終的に不和になったとされますが、妻や娘に対しては情が深かった一面も伝えられています。
正史の評価: 正史『三国志』の著者である陳寿は、呂布を「壮士であり、弓馬に長け、腕力は人に過ぐ」と武勇を称える一方で、「軽はずみで信用がなく、裏切りが多く、ただ利益だけを追い求めた」と厳しく評価しています。
下の表は、ゲーム「三國志14」における呂布の能力値です。武力の高さが際立っていますが、知力や政治は低い評価となっています。
能力 | 数値 |
---|---|
統率 | 95 |
武力 | 100 |
知力 | 26 |
政治 | 13 |
魅力 | 36 |
出典: 三國志14における呂布の能力値 |
最期
198年、呂布は曹操と劉備の連合軍によって本拠地である下邳を包囲されます。籠城策をとりますが、曹操軍の水攻めにより城内の士気は低下し、部下の裏切りによって捕らえられました。
捕らえられた呂布は曹操に対し、「貴殿が歩兵を指揮し、私が騎兵を指揮すれば天下統一も容易い」と命乞いをしますが、劉備が「丁原や董卓を裏切ったことをお忘れか」と進言したため、曹操は呂布を処刑しました。参謀の陳宮も共に処刑されています。
後世における呂布像
呂布は、その劇的な生涯と圧倒的な武勇から、後世の創作物において非常に人気の高いキャラクターとなっています。特に羅貫中の小説『三国志演義』では、最強の武将として描かれ、虎牢関の戦いで劉備・関羽・張飛の三兄弟を同時に相手にするなどの活躍を見せます。
現代においても、漫画、ゲーム、映画など様々なメディアで呂布は取り上げられ、その強さや人間的魅力(あるいは欠点も含めて)が多様に描かれています。多くの場合、最強の武人としてのイメージが強調されています。